くわこの日常

日常のインプットをアウトプットするブログです

落語が300年続く理由を考えてみた

テケテンテンテン、ツクテンテンテン

軽快な出囃子に乗って噺家が登場します。

「毎度、馬鹿馬鹿しいお話を一席……」

 

伝統芸能の一つとは言え、落語は庶民の娯楽。肩肘張ってみるものではありません。東京にある常設の寄席だと、飲食OKだったりします。チケット(木戸銭)の価格も手頃で、気軽に楽しめます。

 

……と、わかったような事を書いていますが、ほんの1年前まで落語のことは全く知りませんでした。ただ、子供の頃から「笑点」はよく見ていましたし、最近は落語が舞台のドラマや漫画をよく目にします。「なんだか面白そう……」と興味はあるものの、ちょっと敷居が高いような……。どこに行ったら観ることができるのか、話の内容を知っておいた方がいいのか、周りに落語好きの人はいないし……。

 

そんな時、よく行く図書館のAVコーナーに落語のCDを見つけました。「昭和の大名人○○○ 独演会」とか、そういうCDです。早速借りて聴いてみました。

 

「……?」

 

ボソボソとしゃべってて、何を言ってるのか全くわかりません。そりゃ何十年も前の録音なので、音質が悪いのはしかたありません。でも、これの何が面白いのか、どうして江戸の昔から続いているのか、頭の中は「?」でいっぱいです。

 

その「?」を抱えたまま、よく行くカフェで寄席があると聞いて行ってみました。ライブで観て、それでも「?」だったら、たぶん私には落語の面白さを感じるアンテナが立っていないという事なのでしょう。

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元々狭いカフェの一番前の席で、噺家さんとの距離は約1m。相撲の「砂被り席」ならぬ「つば被り席」です。私も話すことが仕事なので、この距離がどれだけしゃべり辛いかわかります。それでもさすがプロ! 話にどんどん引き込まれていくのが、自分でもわかります。あのCDは何だったんだろう? どうしてこんなに面白いんだろう? 

 

CDに無くて、ライブにあるもの。身振り手振り、顔の表情……。手拭いと扇子で様々な物を現し、顔の向きだけで登場人物を使いわけます。情景が目に浮かび、江戸時代にタイムスリップしたような気持ちです。そして観ているお客さんの反応、そういう全てが落語の面白さに繋がっています。何もわからない初心者が、CDで音声だけ聞いても「?」なのは当たり前でした。

 

その日から私は落語が大好きになりました。平均月1回のペースで寄席に行きます。Apple musicの落語チャンネルを聴いたり、youtubeで亡くなった名人の映像をみたり、TVの番組もチェックします。噺家さんのエッセイや入門書の類も読みました。前座修行の事や、江戸落語上方落語の違いを知ったり、少しずつ演目も覚えました。

 

敷居が高いと、遠ざけてた自分がバカみたいです。でも、どうしてこんなに落語って面白いんでしょう?

 

落語の登場人物といえば、「八っつぁん、熊さんに馬鹿の与太郎、横丁のご隠居さん」などと言いますが、どの人物も周りにいそうな、ちょっとダメな人たちばかりです。歴史上の人物のような立派な人はいません。「もう、バカだなぁ」と思いつつも、他人事とは思えません。「あー、私も同じことやった……」「こんな人、いるいる」

話の内容も難しい事は出てきません。庶民の日々の生活が舞台です。話し言葉を中心に、テンポよく進んでいきます。家でゴロンとなりながら、テレビでホームドラマを見ているような、そんな気軽さです。

 

落語の登場人物に共感しているうちに、なんだか自分の事のような気がしてくる。

しかも、落語には、難しい表現も華美な表現もありません。説明しなくても、会話でどんどん話が進んでいきます。最後には「落ち」がついて、すっきりした気持ちで終わります。

 

たぶん、噺家さん達はそう感じさせるための技術を、必死でみがいているのでしょう。でもそんな事はお客さんには、全く感じさせません。どうしたらお客さんが喜んでくれるのか、面白いと感じるのか、それを考え続けることを「修行」と呼ぶのかもしれません。

このスタンスがあるからこそ、落語が300年続いてきたのだと気がつきました。

 

落語ではありませんが、私も「人と話すこと」「相手に伝えること」を生業としています。どうせなら、相手が面白く喜んでもらえるように、考え続けていこうと思います。

まだ高座にすら上がれていないかもしれないけど……。真打を目指して修行に励みます。